はじめに
「子供の学力低下」がさけばれて久しいが、塾講師暦十余年の著者もそのように感じることが多い。特に「国語力の低下」が顕著のように思われる。「書けない」「読めない」子供は以前より存在していた。しかし、ここ最近見受けられるのが、「話せない」「聞けない」生徒の増加である。「話す」「聞く」は共同体を営むうえでの「最低必須条件」である。それがうまく機能していない。一つ一つの単語は話せても、それを一つのフレーズとして頭の中で構成しないまま話そうとする。その結果、本人が伝えたいと思っていた内容が正確に相手にとどかない。また、こちらが話すことを正確に聞き取れない生徒もいる。注意力の欠如が原因だろうか?同じことを何度も言う羽目になる。「話す」「聞く」でさえこの有様であるから「読む」「書く」に至っては言わずもがなである。また、当塾で国語だけの受講を依頼するケースが目立つ。以前であれば算数が中心、帰国子女向けでもない限りこのようなことは稀であった。他教科より、日常生活でできているはずの「国語」を優先させる。そのくらい子供たちの国語力は低下しているのである。ここではその原因を追究するつもりはない。それよりもいかにしてこの状況から中学受験に耐えうる学力を身につけさせられるかが優先課題である。「どうして国語ができないんだろう?しょせん日本語じゃん。日常生活をきちんとすごせていれば問題ないはず。」と言った疑問もあろう。これは正論である。国語を必要以上に難しく考えてしまっている生徒にはこの開き直りともいえる「しょせん日本語」は有効である。しかし、それゆえに逆になめてかかる生徒もいる。その例がとりもなおさず筆者自身であった。他教科には手をつけても国語だけはノータッチ。「そのうちできるようになる」と高をくくっていたが、結局「そのうち」はこなかった。そこで考えたい。「老若男女が使えるはずの日本語つまり国語をどうして中学入試で扱う必要があるのか」ということである。学校説明会などでは、「大人が使うような難しい表現を多用する必要はない。きかれたことに対していかに正確に答えられるか、わかりやすく表現できるかが重要である。」ということが話される。昨今のようにコミュニケーションの不足、つまり国語力の低下によりさまざまの問題が生じる状況では国語力に優れた生徒を学校側が求めたがるのは当然ではないか?その例として「御三家」を含め、多くの学校で自己表現力を問われる「記述問題」を扱うようになってきた。この傾向はこれからも続くだろう。 そこで、いままで国語ができなかった人、改めて「正しい解き方」を学びたいと願う人に言いたい。国語は決してあいまいではなく、「算数のように一つの答えしか存在しない。また、時間はかかるが、取り組み次第では他教科に先んじて成績を伸ばせる可能性の高い教科である。実際に以下で話す方法で偏差値20アップを実現させた生徒も多い。これから述べることが国語の苦手な皆さんの光明になることを念じてやまない。