国語の勉強として読書をするなら、何をお勧めしますか?
と聞かれたら、心情の機微を描いたものをお勧めします。
読んでいるうちに、いわゆる「物語における心情の複雑な動きのルール」みたいなものが、体得できるかと思います。
この「ルール」の体得、これこそが、読書がもたらす効用のひとつかもしれません。
論説系の読書であれば、筆者の主張は幾度も出てきますね。
で、その何度も出てくるうざったい主張が、抽象的表現であることを、読書量の増加とともに、なんとなく理解できていく。
すなわち、大切なことは抽象的に語られる、という論説文の「ルール」を知らず知らずのうちに体得していることになるのです。
文学系の読書であれば、物語文の基本「ルール」である、登場人物の心情の「ルール」を体得します。
大体、文学系の文章で、登場人物の心情が理解できないとおもしろく読めるはずはないんです。
だから、文学系の文章を読むときは、登場人物に対して、「こいつ、何考えてるんだろう?」って、さながら推理小説のように、ありとあらゆる心情の手がかりをつかもうとしながら読み進めることになります。
その結果、表現から心情の手がかりを探るという「ルール」を、読書という体験を通してつかんでいくわけです。
えっ、本当? 論説文や物語文をたくさん読むだけで、その「ルール」がわかるようになるの?
と思われる方。
少女漫画を思い浮かべてくださいな。
少女漫画のセオリーってなんとなくありますよね。
少女が好きな男の子に惚れられる瞬間は、飛び切りの笑顔の瞬間だったり、一生懸命さであったり。
しかも出会いは、ありえねーという「少年少女がいきなりぶつかる」というシチュが実に多い。
好きな男の子に振り向いてもらえない女の子のことを、その男の子の親友がすきになっちゃうというパターンも多いですよね。
後は「格差」でしょうか。さえない女の子が人気者の男の子に惚れたり、貧乏な女の子がお金持ちの男の子に惚れたり。押しに弱い女の子が意地悪な男の子に惚れたり。
まあ、「いかにも少女漫画」っていう「あるある」セオリーは、ざっと見積もっただけでもかなりの数にのぼります。
えっ、なんでそんなに詳しいかって?
それは、私がかなりの少女漫画を読んできた人間だから。
だから「あるある」ルールを体得しているのです。
論説文や物語文の読書も少女漫画を読むのと同じ。
パターン、すなわち「読解のためのルール」はあります。
その一般的パターンを裏切って書かれたものは、非常に難解。
でも、中学受験、高校受験、そして大学受験の大半レベルなら、
まずは、「あるある」ルールからはみ出すものは出題されないと言い切りましょう!
だから、一定量の読書をすることで、「あるある」ルールを体得することは可能。
それが、国語の読解の際に役立つことになるわけです。
だから、読書は国語力には直結しない、というのは、実は言い過ぎで、特効薬としては効かないけれども、長年にわたってじわじわと国語力を上げていくものである、とは言えます。
だけど、子どもには、とにかく読書をさせましょう!なんて言いません。
幼いころから「本の虫」と言われたワタクシも、強いられた読書は大嫌いでした。
それに、読書の楽しみを知らないお子さんに、「読め読め」言うのは、ちょっと違うと思うのです。
まずは、親御様ご自身が、読書の熱に浮かされた体験をお子さまに語るところから始めてみる。
もしくは、親御様ご自身が、熱心に読書をする姿を常に見せるのもいいかもしれません。
親のあなたをとおして、「読書って、おもしろいんだろうな」とお子さまが思えたら、お子さまはいつかみずから本を手にとることでしょう。