みなさんこんにちは。受験Dr.の久米です。
前回は三大○○についてお話ししました。
三大○○の中で出題が多いのは、なんといっても江戸時代の三大改革です。
江戸時代を通じての経済の発展は幕府の支出の増大をともない、
幕府の財政は年を追うごとに厳しくなっていきます。
江戸時代の三大改革と田沼意次の政治のそれぞれで、
どのような方法で幕政の改革が目指されたのか、
中学入試で問われることのみにしぼって、同じ項目ごとに比較してみます。
A中心人物と始まった年、その背景と対応・結果
享保の改革 徳川吉宗(八代将軍)、1716年から約30年
背景⇒新井白石を中心とした「正徳の治」による財政再建が失敗したこと
対応⇒倹約で支出を抑え、農業振興で増収を図る
結果⇒幕府財政の立て直しに成功
田沼意次の政治 田沼意次(老中)、1772年から約15年
背景⇒享保の改革で好転した幕府財政の再びの悪化
対応⇒商人の力を借りて商業振興で増収を図る
結果⇒天明のききんの影響とわいろ政治への反発で意次が失脚
寛政の改革 松平定信(白河藩主⇒老中)、1787年から約7年
背景⇒1782年以降の天明のききん、田沼のわいろ政治への反動
対応⇒享保の改革にならった倹約と農業振興、思想統制
結果⇒一時的に財政の立て直しに成功も、厳しい政策への反発で定信が退任
天保の改革 水野忠邦(老中)、1841年から約2年
背景⇒1833年以降の天保のききん、1837年の大塩平八郎の乱、諸外国の接近
対応⇒享保・寛政の改革にならった倹約と農業振興、幕府権力の強化
結果⇒失敗して幕府の権威が落ちる
上記の中で異質なのは田沼意次の政治です。
三大改革のいずれも倹約(=支出を抑えること)をうたったのに対し、
田沼は商業振興を通じて産業全体を活性化させようと考えていました。
近代国家の経済政策に通じるものとして評価する人もいます。
B農業政策
享保の改革 ①新田開発をすすめる ②青木昆陽にさつまいもの栽培を広めさせる
田沼意次の政治 印旛沼・手賀沼の干拓計画⇒失敗
寛政の改革 ききんに備えて村に米を蓄えさせる囲米の制を行う
天保の改革 年貢を増やすため、江戸に出ていた百姓を農村に帰す人返しの法を行う⇒失敗
C商業政策
享保の改革 倹約をすすめる
田沼意次の政治 株仲間を積極的に認めて幕府の税収を増やす
寛政の改革 ①倹約をすすめる ②棄捐令(旗本・御家人の借金を取り消す)
天保の改革 物価を下げるため株仲間を解散させる⇒失敗
D学問政策
享保の改革 漢訳洋書の輸入制限をゆるめる⇒後の蘭学の発展につながる
田沼意次の政治 特になし
寛政の改革 幕府の学校で朱子学以外の学問を禁じる
天保の改革 特になし
E大名・公家への政策
享保の改革 上米の制(大名に米を収めさせる代わりに参勤交代をゆるめる)
田沼意次の政治 特になし
寛政の改革 特になし
天保の改革 上知令(江戸や大阪付近の土地を幕府の領地にする)⇒失敗
Fその他
享保の改革 ①目安箱の設置 ②足高の制(身分が低くても能力ある役人を登用する)
③公事方御定書(裁判の基準)をつくる ④吉宗は紀州出身で米将軍と呼ばれる
田沼意次の政治 川柳「役人の子はにぎにぎをよくおぼえ」
寛政の改革 ①改革を批判した狂歌2首が有名
「白河の清きに魚のすみかねて もとのにごりの田沼こいしき」
「世の中に蚊ほどうるさきものはなし ぶんぶ(文武)といいて夜もねられず]
②松平定信は白河藩出身で吉宗の孫
天保の改革 特になし
江戸時代は金肥の普及や商品作物の栽培により、
農村へ貨幣経済がしだいに浸透していく時代でした。
米を収入の柱とした江戸幕府がそのことに対応しようとした結果、
三大改革が起きました。
後年になるにしたがって改革の実行年数が短くなるのは、
江戸幕府の体制が限界に近付いていたことの表れでしょう。
それではまた。受験Dr.の久米でした。