みなさんこんにちは。受験Dr.の久米です。
前回は幕末から明治までの日露外交史についてお話ししました。
今回は大正から平成までの日露(日ソ)外交史についてお話しします。
大正から平成までの日露(日ソ)外交史をまとめると以下の通りです。
①1917年にロシア革命が起こり、翌年日本がシベリア出兵を行う
②1938年にノモンハン事件で日ソ両軍が衝突する
③1941年に日ソ中立条約を結ぶ
④1945年にソ連が日ソ中立条約を破棄して満州、朝鮮、北方領土に侵攻する
⑤1951年のサンフランシスコ講和会議が行われたが、平和条約にソ連は署名せず
⑥1956年に日ソ共同声明を発表する
⑦1985年からゴルバチョフ書記長がペレストロイカを行い、1991年にソ連が崩壊する
⑧2016年にプーチン大統領が来日し、安倍晋三首相(当時)と会談する
それぞれについて、詳しく見ていきましょう。
①第一次世界大戦中にロシア革命が起こり、
ロシアはソビエト連邦という世界初の社会主義国へ変わります。
個人にお金もうけの自由を与えるのが資本主義、
経済活動や個人の財産に対する国の管理を強めるのが社会主義です。
社会主義革命に干渉しようとして日本はシベリア出兵を行いますが、
成果を上げられず引き上げます。
②満州国を成立させ、日中戦争に突入した日本は、北満州のノモンハンでソ連と衝突します。
機械化を進めたソ連軍に敗北した日本はソ連領への進出を諦めます。
③日中戦争の長期化がさけられない状況となった日本は、
ソ連との戦いを避けるために日ソ中立条約を結びます
④日本の敗戦が濃厚となった1945年8月8日、ソ連はいまだ有効であった日ソ中立条約を
一方的に破棄して満州、朝鮮、北方領土に侵攻します。
この結果、中国東北部に取り残された日本人の中国残留孤児が多数出ることになります。
ソ連軍に捕らえられシベリアで強制労働をさせられた日本人も多数存在します。
⑤日本の敗戦後、1950年に朝鮮戦争が起こり、
ソ連や中国の社会主義諸国とアメリカなどの資本主義諸国との対立が深まります。
1951年のサンフランシスコ講和会議ではソ連は出席しましたが、
日本とのサンフランシスコ平和条約には調印しませんでした。
⑥1956年に鳩山一郎内閣が日ソ共同宣言に調印し、同年に日本は国際連合に加盟します。
この際に日本は択捉、国後、色丹、歯舞群島の返還を求めましたが、
ソ連は応じず、北方領土問題は未解決のまま残ることとなります。
⑦1985年からソ連の最高指導者である書記長に就任したゴルバチョフは、
ペレストロイカ(改革)を掲げて国内の経済や社会の自由化を進めます。
これによって東欧諸国は社会主義を放棄、
1989年にはベルリンの壁が崩壊し冷戦が終結します。
1991年にはソ連が崩壊し、中央アジアのカザフスタンやウズベキスタン、
東ヨーロッパのウクライナやベラルーシなどが独立します。
⑧2016年にロシアのプーチン大統領が来日し、当時の安倍晋三首相と会談しますが、
北方領土問題に進展はありませんでした。
ロシアの前身となったモスクワ大公国はモスクワ周辺のみを領土とする小さい国でしたが、
周辺地域への拡大をくり返し世界最大の面積を誇る国家となりました。
日本との北方領土の紛争も今回のウクライナ侵攻もその歴史の延長線上にあり、
ロシアの拡張主義が西と東で表出したものと考えられます。
それではまた。受験Dr.久米でした。