こんにちは、社会科担当の長門 明です。
さて今回は、「5つの重要鉱山」シリーズ、その後編です。
「銀銀金銅銅」の後半部分である、
「1つの金山」と「2つの銅山」についてお話したいと思います。
よろしくお願いします!
鉱山「金・銀・銅物語」(後編)
◆兄「佐渡金山」と弟「江戸幕府」
① 佐渡金山(新潟県 1601年〜1989年)
まずは、新潟県にある「佐渡金山」です。
佐渡と言えば、かつては「西回り航路」の寄港地として栄え、
現在は「トキ」の繁殖地や「世界ジオパーク」としても有名です。
そんな佐渡が家康の所領になり、金脈が発見されたのが1601年です。
家康が江戸幕府を開くのが1603年になりますので、その意味では、
「佐渡金山」が兄、「江戸幕府」は弟の関係と言えます。
そして、この兄の存在が、弟の財政を力強く支えたのです。
「佐渡金山」は、江戸時代初期の最盛期には年間400㎏の金、
そして35トンほどの銀を産出しており、これらが幕府に上納され、
莫大な財源になっていたのです。「財力」こそが、幕府の強さの基盤でした。
さらに、幕府はこの豊富な資材を使い、「あるもの」を作ります。「貨幣」です。
◆日本初の「統一貨幣」の誕生
強力な幕藩体制により全国支配に成功した「江戸幕府」は、鉱山の支えにより、
金・銀・銅を使って日本初の「統一貨幣」の流通に取り掛かります。
「慶長小判」や、あの銭形平次が投げていた「寛永通宝」が、それに当たります。
ちなみに、この「金・銀・銅」の貨幣を両替したのが、あの「両替商」です!
ここで、「なぜ江戸時代まで統一貨幣がなかったの?」と思った皆さんは鋭い!
理由としては、事実上の「全国統一」が、家康の時代までなされなかったことや、
自前の貨幣を大量に流通させる十分な資源が日本になかったことなどが挙げられます。
ちなみに、これは日本が中国から「宋銭」や「明銭」を輸入していた理由でもあります。
そして、これらの問題点を見事解決したのが、「江戸幕府」と「鉱山」だったのです。
1610年には足尾銅山も支配した幕府は、「佐渡」「石見」「足尾」の豊富な資源により、
その支配力を盤石なものとして、統一貨幣を流通させることに成功したのです。
「鉱山の歴史」は、「統一貨幣誕生の歴史」と深くつながっているのです。
◆「2つの銅山」と「財閥」の関係
足尾銅山(栃木県 1610年〜1973年)
別子銅山(愛媛県 1690年〜1973年)
最後は、「2つの銅山」を一緒に紹介していきます。
1つ目は、栃木県の「足尾銅山」です。皆さんご存知ですよね。
開山は1610年、最盛期には1200トンもの銅を産出した「足尾銅山」の銅は、
「寛永通宝」や「日光東照宮」の材料、長崎貿易の輸出品などにも使われました。
しかし、産出量が激減し、明治になると「古河財閥」が買い取り、再建を始めます。
もう1つは、愛媛県の「別子銅山」です。H30武蔵中の社会でも出題された鉱山です。
開山は江戸時代の1690年ですが、幕府は一切管理していませんでした。
「別子銅山」は、開山から400年の間、ずっと「住友財閥」が経営したのです。
このように見ると、「鉱山」の歴史は、「財閥」の歴史とも結びついています。
一見関係のなさそうな「2つの単語」が結びつく、これこそが「歴史の醍醐味」です。
◆「2つの銅山」と「公害」
明治になり、西洋の進んだ技術を取り入れた「足尾銅山」は華々しく復活しますが、
1891年に「日本初の公害」が起こってしまいます。「足尾銅山鉱毒事件」です。
場所は栃木県の渡良瀬川流域、直訴したのが衆議院議員の田中正造です。
ここで1つ、皆さんに質問です。
「別子銅山」では「公害」が発生していたと思いますか?
特にテキストにも書いていないので、「発生してない」と思った人は多いと思います。
でも、答えは「別子銅山」でも「発生していた」となります。「煙害」です。
「足尾銅山」が、「有害物質」が流れ込んだ「水質汚染」だったのに対して、
「別子銅山」は、工場から出る亜硫酸ガスなどによる農作物への「煙害」でした。
その違いは、直接「人命」に影響するか、それとも「農作物」に影響するか、です。
しかし、私たちの生活の営みを「壊す」ものは、みな「公害」とも言えるのです。
社会の学習は、「人間の営みの歴史」の学習でもあります。
「鉱山の歴史」が「公害の歴史」とも深く関係している事実を知ることで、
「人間の営み」には、「光」と「影」の部分があることを、実感できるのです。
まとめ
いかがでしたでしょうか。
「鉱山の歴史」から、たくさんの「人間ドラマ」があったことが分かったと思います。
社会の学習の楽しさは、実はこの「人間ドラマ」の面白さでもあります。
是非、いろいろな人物や出来事について興味関心を持って調べてみて下さい。
以上、長門でした!