みなさん、こんにちは。
受験ドクターのNです。
「入試に出る文章を予想する」
これがどんなにつまらないことかを
前回のブログから語っておるのですが…
あえて、
「これが入試に出る」と思われる「厳選」の書をお子さんに与えたとしましょうか。
で、どうしますか?どうなりますか?
その本を読む時間。
入試でピタリ的中する確率。
的中した場合、設問に対してしっかり対応できる保証。
あまりにリスキーな賭けだとは思いませんか。
少々厳しい言い方になってしまったようです。
「出典なんて別に気にしてないよ」
という方にとっては、ここまでの私の説明は
実につまらなかったことでしょう。
ただ、親御さんが気にしないとしても、
指導者が現場であおられることはあるのです。
これはどういうことかというと、出題予想をすることをよしとする雰囲気が作られがちである、ということなんです。
進学塾は「成績を上げて合格させる」ことが使命です。
難関校にどれだけ重きを置くかについては塾によってコンセプトはさまざまですが、
「成績向上・志望校合格」を目的から外す進学塾は存在しないはずです。
合格のために最後にしてあげられること。
それは
「時間を拡張した補習」だったり、
「寄せ書き」だったり、
「激励会」だったり、
「入試当日朝の握手」だったり…
いろいろありますが、
そのなかのひとつに「入試問題予想」というのがあるわけです。
「○○中の理科は■■が出るぞ」
「△△中の社会はここ最近◆◆分野が連続して出題されている!」などなど。
■■とか◆◆の部分には、
たとえば「生物」だの「公民」とかの分野を示す言葉が入る場合もあれば、
もうすこししぼって「星座」「戦後史」「図形の回転」などの、
より具体的なキーワードが入る場合もあります。
さあ、気合が入ります。負けてはいられない。
というわけで、国語の先生も「出題予想」をしましょう、
ということでがんばることになります。
ところが、さて、どうしたものでしょう。
「○○中の国語は、物語文が出るぞ」とか
「△△中の国語は、筆者の意見と理由が問われるぞ」とか
こんな予想を聞いたことはありますか?
ありませんね。当たり前です。
なぜなら、それを言った先生がバカにされるだけだからです。
「そんなの予想じゃないよ」と一笑に付されるだけだからです。
文章の「ジャンル」や「読解要素」なるものは、他教科に比べればごくごく限られており、また、ほとんどの学校での出題のあり方は似たり寄ったりなのですね。
試みに書店で入試問題集をパラパラとめくってみてください。
「ああ、○○中は■■を出題しているね。」
算理社であれば素人の方でもこういうことはすぐに言えます。
でも、国語だとこういう指摘はなかかなかできません。
「筑駒は(ほぼ)毎年『詩』を出す。」
「豊島岡は難しい文章が出されやすい。記述は少ない。」
この程度であれば、多くの学校の問題にあたっていけば、容易に気付けます。
もし予想をするのであれば、
「☆☆中は、主人公の心情変化から主題を導く理解を記述で問うてくる。」
「▽▽中は、説明的文章の要約記述を八十~百字で問うてくる。」
せめてこれくらいの具体性はもたせたいものです。私自身、出題について質問されればこのように説明してきました。
でも「要求されたら」ですよ。
なぜか?そんな狙いを定めないと合格できない受験生にするつもりが毛頭ないからです。
そしてもうひとつ。
「予想」という言葉の裏には「過去の出題傾向からは判断しきれない、いわば『予言』のようなもの」を期待する気持ちが感じられるからです。
私は超能力者ではありません。
「来年ガラッと変わるかもしれないですね」
とは言えても、
「麻布は来年久しぶりに説明文を出してくるぞ」
などとは言えません。
ただ言うだけならカンタンですけどね。
でも、そこに何の意味があるのでしょう?
悲しいことに、国語の世界では「出典」が注目されます。
「過去~年間に★★という作家が書いた作品が延べ■校で扱われた。」
こんなことがさも有益に情報であるかのように、書かれた資料を目にされたことがあるのではありませんか。
講師の「予想」もいきおい「出典」に傾きます。
現実的に範囲が限定されてくる古典(中学入試には関係ありません。いまのところ。)であればまだしも、いくら傾向がみえるからといって、人気作家や、中学入試が好みそうな作風の文筆家の名を語ることに、いったいどれほどの意味があるのでしょうか。
「傾向と対策」を「競馬の予想」にしてはいけません。