昨日、「ハーバード白熱教室」というテレビ番組の最終回の録画を見ました。昨日ヤクルトスワローズが勝利したこともあり、生粋のヤクルトファンである私は、気分よくテレビを見ました。(笑)
その中で、教授が最後に「正義」について講義をしていました。
「正義は、一つではなく多様である。しかし、人間や社会はそれに無関心であったり、中立の立場でいることはできない。人間は答えを求める生き物であり、だからこそ、哲学が今も学ばれ続けているのであろう。人間は、正義の多様性を認めたうえで、それに積極的にかかわり、道徳アプローチをしていくこと、そして、その正義の中に存在する「善」についてソクラス的思考(対話、弁証)で、考えていくことが現代では求められている。」というような内容だったと思います。
(夜中に見た記憶なので、うる覚えです。間違っていたらごめんなさい。)
このような演説をしたあと、教授は教室を立ち去ろうとしたのですが、教室は生徒が総立ち状態で、拍手の嵐。はにかみながらも、「サンキュー」といって拍手に応えたいたのが印象的でした。
私も、最後の授業で生徒にこのようなことをされたいなあ~と思いましたが、思いとどまりました。
だって、個別で生徒が先生を挟んで拍手するというのは異様です。(笑)
まあ、それはともかくこの教授の演説のなかで、人間は答えを求める生き物というフレーズに衝撃を受けました。なぜかって?
大人や年老いた人たちが、よく大学や高校などで、もう一度勉強をやり直す理由がなんとなくわかったような気がしたからです。
人間は答えを求める生き物。だから、それを求めて人は学び続ける。学校の勉強はその入り口にしかすぎないということです。
私が大学時代に「教育心理学」を勉強したのですが、その中で、アメリカの心理学者であったマズローの欲求段階説がとても印象に残っています。
これは人間の欲求をレベル別に分けたもので、
①生理的欲求(衣食住への欲求・・生きるうえでの根源的な欲求)
②安全の欲求(安定思考)
③親和の欲求(他人とかかわりたい、他人と同じようにしたい)
④自我の欲求(自分が他者から認められたい、尊敬されたい)
⑤自己実現の欲求(自分の能力、可能性を発揮し、創造的活動や自己の成長を図りたい)
というものです。
優秀な人は、⑤のレベルまで短時間で駆け上がるそうです。
勉強(学問)は、この⑤の欲求に深い関係があるのです。
だから精神的な成熟度が高い、つまり⑤のレベルに達した生徒=勉強をする生徒となるのです。逆を言えば、④の段階で止まっている人は、勉強しなくなるのですね。
もちろん、①~④の欲求が満たされて⑤へ行くので、⑤の状態をずっと保っているのではなく、①~⑤を行ったり来たりするのでしょうが。
要は、勉強の目的を何にするかによって、その持続性が変わるのです。
私のいとこの娘さんで、大学病院の緊急医療センターに勤めている人がいるのですが、激務なので、母親(日赤病院の看護婦&政治家の妻)に通常勤務ができる職場へ移動しないかとさんざん言われているそうですが、頑としてその職場を離れないそうです。たぶん、使命感が強いのですね。もちろん、学生時代から、相当勉強したそうです。
もう一人のいとこの息子さんは電通で働いています。これも激務だそうです。ちなみに、このいとこの方は、薬学部卒業して、薬剤師をする傍ら、都内でボランティア活動しています。
この周りの人を見ても、先のハーバードの教授の話やマズローの説は納得するものがあるんです。
ちなみに、私の知り合いの知り合いで、受験勉強というものをまったくしないで国公立大学哲学科を卒業したのですが、、院生になって論文ができず、ずっとフリーター生活をしている人がいます。この人はとても頭が良かったそうです。(この人は歴史上の人物の子孫で、名家の出身です。)ちなみに、彼の友人の一人はNTT○○○の重役、もう一人はE○○の重役だそうです。
つまり、頭の良さにかまけて勉強しないと、社会的な生活はできないということになるのです。
でも、この落差はすごすぎる。
以上、とりとめのない話になりましたので、ここらへんで終わりたいと思います。