「流し読み」・「あいまい読み」から「目的読み」へ

視点を定めれば 文章が「わかる」

~ふらつかない高偏差値を手に入れる方法~

★ 国語の苦手なお子さんの特徴は?⇒Aタイプ チェックリストへ
★ 国語の成績に波のあるお子さんの特徴は?⇒Bタイプ チェックリストへ

Aタイプ チェックリスト

□ 物語文より論説文の方が苦手意識が強い
□ 時間が足りず、最後まで解けない
□ 記述は空欄が多い
□ 選択問題は二択に絞り込めない
□ 抜き出し問題で空欄が多い
□ 接続語補充問題で半分以上間違える
□ 問題用紙の本文に線が全く引かれていない

上記7項目のうち、4年生は5つ以上、5,6年生は3つ以上あてはまったなら、集団授業ではお子さんの成績は今以上に上がることはないと言えます。

Bタイプ チェックリスト

□ 物語文の背景になじみがないと点をおとしてしまう(戦時中・家庭の事情が複雑など)
□ 論説文の内容が苦手な分野だと途端に読めなくなってしまう(科学分野・芸術分野など)
□ 記述は書いても×になってしまう
□ 選択問題では絞り込んだ二択のうち不正解を選びがち
□ 抜き出し問題は答えを書いても×が多い
□ 接続語補充問題で満点をとれないことが多い
□ 問題用紙の本文の線の数が1,2本、もしくは逆に2/3以上引かれている

上記7項目のうち、4年生は5つ以上、5,6年生は3つ以上あてはまったなら、早めに原因を探り出し対処しないと、志望校合格は不安定な運任せとなります。

では、このような状態になる原因はどこにあるのでしょうか?

Aタイプのお子さんの場合は「流し読み」、Bタイプのお子さんの場合は「あいまい読み」をしているからです。
これを大人の「目的読み」に変えていくことで、設問の求めている解答を導き出す「読解力」を手に入れられるのです。

流し読みあいまい読み初期段階⇒後期段階⇒⇒⇒目的読み

実際に、説明的文章を基に、「流し読み」「あいまい読み」「目的読み」とはどういった読み方なのか、かんたんにご説明するとともに、「目的読み」にいたるまでのプロセスと方法をご紹介いたします。

流し読み」とは?

子どもは自分に興味のもてない内容だと判断した文章は「流し読み」します。
字面だけが流れて行き、頭は動いていません。
ですから文章を読んだ後、「何が書いてあった?」とたずねると、記憶に残った部分を答えます。(私の経験では、「流し読み」のお子さんは、文章の骨子からすると枝葉の部分である具体例などを答えることが多いように思います。)
本人はまじめに一通り文章を読んではいるが、「何についてどんな根拠でどんなことが書かれているか」ということには何一つ答えられない、この段階を私は流し読み段階と名づけています。
これは、重要度の強弱をつけながら読む、すなわち考えながら読む、ということができない状態だと言えます。
では、「流し読み」しているお子さんをどうしたら考えながら読むようにできるか、といえば、素材文に線を引かせるのが指導の第一歩なのです。
なぜなら、線を引くということは、書かれた情報を区別し、その役割を考え、引くところと引かないところを判断していく作業だからです。
つまり、線を引きながら読む、ということは、考えて読むということなのです。

素材文への線引きはどこの塾でも「説明的文章」ならば「重要語句」「問題提起の文」「筆者の意見」「つまり・しかしの接続語」に引くことから指導します。
「文学的文章」ならば「登場人物」「心情を表す語」「時間、場所を表す語」「比喩表現」などでしょうか。

線引きを教えると、お子さんの多くは初めのうちは、おそるおそる一、二本の線を引きます。
そのうちいっぱい線を引きはじめ、やがて素材文全体の6~70%近く引くお子さんが出てきます。「だって全部筆者の意見だもん」というわけです。
設問の線も見えないくらい引いてしまうと、ほとんどのお子さんはこの時点で「線引きはかえってわからなくなる」だとか「自分には向かないよ」と線引きの効果を疑って、線を引くことをやめてしまいます。
しかし、線引きの大切さはここから始まるのです。
引きすぎた線というのは、一応考えながら読んではいるものの、まだまだ書かれた情報の十分な識別ができていないということ。
つまり、これがあいまい読みの初期の段階なのです。

流し読みあいまい読み初期段階???

あいまい読み」とは?

線引きを指導されたお子さんは、流し読みの段階が終わり、とりあえず「大事そうなところ」に線を引くことで、大雑把ではあるものの、情報の整理を始めます。
このとき、「大事そうなところ」を判断する視点があいまいなため、やたらと線を引き、本文の3分の2ほどひく状態になることは先ほどお話しいたしました。
引く線を減らそうとすると、重要なところとあまりそうでないところをさらに区別しなければならない。
どこが大切なの?どこに引けば、十分なの?
これがあいまい読みの初期段階といえます。
この段階のお子さんも「流し読み」のお子さんほどではないにせよ、かなり国語の成績が低迷しているはずです。
では、どうすればよいか。

それをお話する前に、「あいまい読み」段階の中でも後期の段階と言える、四谷の偏差値で55以上65以下のお子さんについて触れておきましょう。
お子さんの偏差値が低迷している保護者の方から見ればぜいたくな悩みに見えるかもしれませんが、この四谷の偏差値で55以上65以下のお子さんで、国語の成績が一定以上上がらないことに悩んでいる方はおおぜいいらっしゃいます。
偏差値55の方には60の壁が、60の方には65の壁が、そして65の方には60後半にいかないという壁が立ちはだかっているのです。
このようなお子さんも後期とはいえ、「あいまい読み」の段階にあるため、成績のムラや伸びのなさに悩むのですね。

では、このあいまい読みの後期段階のお子さんはどのように文章を読んでいるのでしょうか。

「何について書いてあるのだろう?」と問いかけながら読む。
この際、内容がむずかしいなと感じたら、「キーワード」に〇をつけつつ、話題を探る。

問題提起された文に線を引き、その答え部分を探して=(イコール)で結ぶ。

話題が変わったところで文章を切る

具体例を大きくカッコでくくる。

筆者の意見と思われる文末の強い表現には線を引く。

「しかし」「つまり」などの重要とされる接続語を□で囲む。

「だから」「ゆえに」「したがって」「なぜなら」などの接続語や「から」「ので」という助詞から、理由と結果を線で結ぶ。

結論部分が主に最後にあるというセオリーから、末尾部分を結論と仮定して、頭の中で大体の「何についてこのような結論を言っている」程度の読みを初読で完了させる。

先ほどの「あいまい読み」段階の初期の方は、まずこの段階を目標として指導することになります。

流し読みあいまい読み初期段階⇒後期段階⇒⇒⇒???

しかし、問題はここから。
この程度の線引きができているにもかかわらず、目指す得点に結びつかない、成績に停滞やムラがある。
これは、線の引き方の甘さ、一見もっともらしく引かれていても、実は正確さに欠けていることが原因です。

ここで、個別指導ができると、子どもの「読む力」は目に見えて上がります。

流し読みあいまい読み初期段階⇒後期段階+(プラス)個別指導

多くの子どもは集団授業の指導の中で、この引きすぎた線を減らす視点が獲得できないままに、本番の入試を迎えてしまうのです。
実は、「読める」ようになればなるほど、引く線は減ってきます。
そして入試当日には、自分なりの線の引き方が出来上がって、必要最低限の線引きで問題にあたることができるでしょう。
これは視点を決めて線を引くという練習を通して、視点をもって考えて読む習慣が身につき、脳内で大人に近い情報整理ができるようになっているからです。

すなわち読む際の視点を明確化することで、情報処理としての線引きの精度が上がり、文章の構造をとらえ、より正確な読解が可能となるのです。
また、視点を明確化すると、設問文においても、どの視点を使って切り取られた問題であるか、作問者の意図もつかみやすくなります。

ではどのような視点で文章の情報を整理していけばよいのでしょうか。

それではいよいよ「目的読み」について、説明的文章を例に説明しましょう。

※この線引き(情報整理)はジャンルごとにやり方が異なります。
ジャンルのとらえかた

目的読みとは?

大人が初めての説明的文章を読むときは、脳内で指示語の内容を素早く変換し、接続語を方向指示器としながら、何についてどんなことが書いてあるか、結論は何か、といった〈読む目的を明確〉にして、緩急つけて読んでいきますね。
この際、筆者の主張が難解な場合は具体例を参考にかみくだいて理解に努め、筆者の主張がある程度理解される時は、具体例は軽く読み急ぎます。
筆者の立場と対比された項目があればそれぞれの立場の異なるポイントをおさえます。
無意識に抽象化された(まとまった)表現を重んじ、筆者の考えの書かれた部分をつなぎながら、結論を探しているわけです。
これが「目的読み」(=「論理読み」)です。

では、この「目的読み」はどのような指導によって身につくのでしょうか。

ちゃんと線引きされた部分と大事なのに見落とされてノーチェックの部分。引かなくてもよいのに引かれた部分。
この子どもの線引きの恣意性が、設問に対する正確な解答を導き出す障害となっているのです。
これは、情報を整理する際の視点が明確化されていないことに起因します。
できるお子さんほど、集団授業での説明に対して「それくらいわかってる」と思いがちですが、「なんとなくわかっている」レベルと「認識」レベルでは、読解方法の実践に差が出てくるのです。
個別指導によって、お子さんの読みのあいまいさがどこにあるかを探り、子どもの「なんとなくわかっている」レベルを「認識」レベルにまで引き上げることによって、大人により近い精度の高い読みが可能となるのです。
haruno_1
では、どのような視点を明確化することで、「目的読み」が可能になるのでしょうか。

視点を教える

以下の絵をご覧ください。
haruno_2

私は絵画に関しては素人ですから、専門的なことはおはなしできません。
このサイトに目を通して下さっている受験生の保護者の方に、視点を明確化すると文章がどういうふうに「見えてくる」のかを体感していただくために、この絵画をあくまで素材として用います。

この絵をご覧になって、「この絵について読みとったことを述べよ」という問題が仮に出されたとして、みなさんは何と答えますか?
もちろん大人ですから、それぞれ視点を持っているわけで、「宗教」という切り口から「これはキリスト教の宗教画である」とか「時代」と言う切り口から「これはルネサンス期以降の神を人間として描くようになった時代の絵画である」とか「一般常識としての知識」としての切り口から「これはレオナルド・ダ・ヴィンチの描いたものである」とか、この絵画を見て情報を伝えることはできるでしょう。
しかし、「宗教」「時代」「一般常識としての知識」、これらはすべて絵画の周縁、すなわち外側の情報であることにお気づきでしょうか。
では、どんな視点が用意されれば、私たちはこの絵画に対し、この絵画の内なる情報を語ることができるでしょうか。
美術の上では、視点として重要なのが〈構図〉であるようです。
実際、〈構図〉と言う視点を与えられれば、私たちは多少なりともこの絵画を読み解くことができそうです。

三者三様のダイナミックな動きを後ろの女性(アンナ)を中心としたピラミッド型で固定して、動を静の中に収めている。⇒構図からの抽象的視点
haruno_03

〈構図〉という視点を与えられれば、様々な絵画も同じようにその教わった視点で読み解くことができますね。

このように、一つの視点を教わると、私たちはその視点を用いて全体を眺め直します。
すると視点を持つ前には見えてこなかったものが見え、整理されなかった情報が形を整えて呈示されることに気づくはずです。
このほか、おそらく美術鑑賞の視点としては、「象徴」や「色彩」「大小」など、さまざま絵画を読み解く視点があるのだろうと推察されますが、門外漢のお話はこれくらいにして、「国語としての素材文」に話をもどしましょう。

私が実際の指導において、情報整理の際に明確化する視点は以下のものです。

抽象と具体の関係の視点
言い換えの視点
対比の視点

以上の3つは互いに関連しあってもいます。
この三つの視点を常に意識して文章の情報を整理していくのです。

その際、

指示語
接続語

を正確にとらえることが必要になってきます。
特に「根拠や理由」をとらえるには、上記二つの正確な読みとりは欠かせません。

では、以上三つの視点とABと読解の関係をかんたんにご説明します。
ここでは「説明的文章」を題材としてお話いたします。

抽象と具体の関係を理解する

抽象の「抽」は「抽選」「抽出」はたまた「抽斗(ひきだし)」の「抽」でもあり、「とりだすこと」を意味します。
初めて見る犬種でも、私たちがそれを「イヌ」と認識できるのは、多くの事例から「イヌ」という概念を形作る共通項を引き出しているからです。
このようにより具象化されたものから共通項を「とりだ」して概念を作り上げることを抽象化する、と言います。
この大人の「常識」をお子さんに伝えるには、やはり対話が有効となります。
お子さんにとってイメージしやすい身近なモノを挙げて、それらがなぜ同じ名前でまとめられるのか、について考えてもらい、言葉にはわかりやすい表現とそれらをまとめる表現とがあることを「認識」してもらいます。
そして、抽象化にはレベルがあり、たとえば「リンゴ」の抽象度を上げて行けば、「果物」「食物」……「物質」にまで至ります。
これを素材文を読む際にどのように活かしていくのか、といえば、自分のつけたキーワードも、抽象度の高い、低いによって、分類できることに気づいてもらいます。
また、具体例の部分は抽象度が低い言葉が並び、その前後のどちらかに必ず具体例を抽象的にまとめて言い換えた表現がくることを学びます。
筆者の考えや主張が書かれた文には抽象度の高い語がくることを知るわけです。
この認識により、無意識に抽象度の高い言葉に着目するようになり、逆に抽象度の高い言葉の意味がつかめないときに、より具体的な表現から、その意味を類推しようとする読みの姿勢が生まれます。
具体と抽象という視点を手に入れることは、情報の分類に欠かせないことであると同時に、強弱をつけて読む姿勢を身につけることなのです。

言い換えの視点を身につける

言い換え」とはある表現を別の表現で表したもので、内容的にはほぼ=(イコール)となる場合を指します。内容が同じであるなら、何も言い換えなくともよさそうなものですが、「言い換え」ることは、同じ内容でも違った角度から照らすことで読み手にその内容の理解の深まりを期待する手法といえます。
言い換えてさらに情報をプラスする手法も多く、言い換えが見抜けないと、情報の数は全部で二つなのに、三つに数える、といった誤読に陥ります。
「言い換え」だ!とわかるためには、その視点をあらかじめ教えておくことがとても大切なのです。

  • 実は「比喩」や「暗示・象徴」も言い換えの一種です。
    これらは言い換えることで、イメージの広がりやふくらみを伝えますね。
    「比喩」「暗示・象徴」も言い換えだということを頭に入れておくと、いわゆる比喩問題、私流にいえば「比喩表現を通常の言い方に戻す問題」がクリアに分かってきます。
  • また、「これはどういうことですか。説明しなさい。」という設問を私は「どういうこと問題」と名づけています。
    「どういうこと問題」はずばり「言い換え」の問題です。
    傍線部と自分の解答が=(イコール)で結ばれるよう、「言い換え」れば良いわけです。
    この際、傍線部が具体的であれば抽象的に、抽象的であれば具体的に言い換えます。
    理由をくっつけたりの作業もありますが、とりあえずはそのままの「言い換え」として処理する、という基本を身につけてもらいます。
  • 選択肢問題の多くも「言い換え」問題です。
    傍線部とほぼ=(イコール)になるよう正確に「言い換え」たものを選んだり、逆に選ばなかったりするわけです。
  • 抜き出し問題でも、「言い換え」の視点は役立ちます。
    この種の問いでは、抜き出す内容に見当をつけてから本文にあたりますね。
    その際、抜き出す解答として内容的には〇でも形が×という部分をみつけたとします。
    もともと抜き出す内容の見当に絶対の自信があるわけではない場合、やっぱり違ったかと、そこであきらめてしまいがちなのですが、「言い換え」の視点が頭に入っていれば、同じような内容の言い換え部分を探す、という選択もできるわけです。
    この目配りが出来るか否かは大きい。
    言い換え部分がないとき、はじめて自身の見当違いを疑えばいいわけで、テスト後に、分かっていたのに得点できなかったという思いを味わう機会が減ります。

「言い換え」の視点を身につけることで、これらの設問に対して一定の解法を身につけられるのです。

対比の視点の獲得

上記二つに比べると、対比の視点はお子さんが一番なじみやすい視点であるといえます。
対比の視点により、キーワードをグループ分けしたり、全体の構造を二項対立として単純化することもできるようになります。
対比とは言え、どちらかが中心、つまり筆者の立場や考えと深く結び付いていますから、対比の視点を用いると筆者の意見もポイントをおさえて整理できるようになります。
対比する時、筆者はどちらかの立場に立っている、と言いましたが、応用になると筆者は二つの立場を融合させてより高次の立場を提唱することもあります。
しかし、いずれにしろ、対比という基本の視点は同じです。

接続語

接続語の働きは7つ(これも数え方で若干違いはあります)。
この働きと種類をまず理解してもらう必要があります。

たとえば7つのうち、「因果関係」という語がひとつのキーになります。
原因⇒結果という流れに沿った順接の接続語「だから」と、あとから原因を述べる説明の接続語「なぜなら」を例にとりましょう。
雨が降った。だからカサをさした。
カサをさした。なぜなら雨が降ったからだ。
初め、A文を見せずに、だからという接続語があったら、理由がくるのは前か後ろか、と子どもに問いかけます。
すると、過半数の子(国語が出来る子も含みます)が、だからの後に理由がくる、と即答します。その後A文を読ませると、「ああ、前だ!ミスった!」と言うのですが、これは「ミス」でしょうか。子どもは良くも悪くも感覚的な生き物で、「なんとなく」だからなぜならを同じような接続語だとぼんやりイメージしているのだと思われます。
この二つは、全く働きの異なる接続語だと「認識」してもらわないと、難解な文章になると、かれらは平気でだからの後に理由を求めたりもするのです。

このように、接続語の働きの違いを意識させることは、読解自体に関わってくるため、特に大切です。
因果関係や同内容の言い換え、結論、話題転換、従来の説の否定、という種類を決定づけるヒントになる接続語、線引きの時に利用しない手はありません。
筆者の意見の根拠がどこに書かれているのか、言い換えている表現二つのうち、どちらがよりまとまった内容か、先の抽象具体の関係の視点を用いつつ、筆者の意見とその根拠に線を引けるのです。

● 少し高度になりますが、接続語で論の型をみぬくこともできます。
たとえば、譲歩文と呼ばれる論の型を見抜けるようになると、論理の流れがよりつかみやすくなります。
入試問題でよく多用されるこの型は、たとえば次のようなものです。

①ネッシーの存在は否定されるものではない。
②(たしかにこれだけ探査されてみつからないというのは実在を疑うに足る事実だろう。
撮られた写真や動画にしても、信憑性と言う点で疑わしいものも多いのは事実だ。
だが、それでもネッシーがいないことも、いることと同じく「証明」されていないのだ。
⑤いないことが証明されない限り、いることも否定されない。

譲歩文とは、自説と反対の意見を紹介し、いわゆる敵に塩を送る形にしておき、それをさらに否定することによって自説を強化する、という手法で、大人ならばよく用いる戦法です。
私は反対意見の根拠もわかっていますよ、それでもそれを論破できるんです、ということを実証してみせるわけですね。
譲歩するときは、「たしかに」や「もちろん」「尤も」といった決まった言葉が用いられ、その後に必ず「だが」「しかし」「けれども」の逆接がくるのです。
ですから、譲歩している部分、上記の例でいえば②③文は( )でくくってしまう。すると、①④⑤の筆者の意見が浮かび上がってくる構造となります。
実は、この譲歩文のあとの逆接の接続語はよく空欄になります。
設問では非常によく扱われる部分ですから、知って身構えておくと正答率はぐんとアップします。

● 線引きから話は逸れますが、接続語の空欄補充も説明的文章の設問には必ずといっていいほど出現します。
もともと日本語における接続語は英語ほど厳密性をもたせずに使われる傾向がありますから、空欄にする接続語は、論理的流れの根拠が明白な場所のみとなります。
ですから、接続語の正しい入れ方は、「論理的に説明がつくように選択する」ということにつきます。

接続語の空欄補充問題では、「なぜそこにその接続語が入ると判断したのか」ということをお子さんに口頭で説明してもらいます。
この際、正解はふせておくのがコツです。
なぜなら、子どもは正解が分かっていると、それに合わせて説明をひねりだしてくるからで、実際自分がどういう手順でその接続語を選んだのかの道筋が、指導する側に見えなくなってしまうためです。
繰り返すうちに、文章の流れに応じて接続語の働きを考え、論理的に接続語を入れるという姿勢が身につき、接続語の正答率はほぼ100%となります。
実はこの接続語の空欄補充問題、入試においては空欄5つ、合計10~15点と意外と配点が高い学校が多く、確実に得点したいところといえます。

指示語

指示語は同内容の繰返しを避けるため、便宜上用いられるいわゆる「こそあど言葉」のことです。
指し示す内容が「単語」のときもあれば「部分」のときもあり、また「一文」「前段落」「前後のいくつかの文章の内容」のときもあります。
また、挿入文があるときは、その挿入文を外して指し示す内容をとらえなければならず、正しい読解力なくしては正確な内容は書けません。

実は指示語も言い換えの一種で、抽象化の一種だと言えます。
ですから、指し示す内容を=(イコール)になるよう具体的に(本文の言葉を使って)言い換えればよいだけの話なのです。

そして、国語の問題の中では数少ない「確かめ算」ができる問題なので、見直しの時点で正解かどうかのチェックができます。
指示語の部分に自分の解答を「代入」して、前後を読みなおし、意味が通じればOK、通じなければやり直し、ということになるわけです。

私たちが理解しながら文章を読んでいる時、脳内ではこの指示語をすばやく指示内容に変換しつつ読んでいるわけで、この変換がうまくいかないとき、人は立ちどまり、理解すべく何度も同じ箇所を読みなおすことになります。
また、この指示語の変換が飛ばされた場合、読後感としては「よくわからなかった」ということになります。
私は子どもには、意味がわからないと思った文には波線を引いておくようにと指導します。
これはどこで理解がつまずいているのかを自覚するのに良い方法です。
大概が表現自体になじみのない言い回し、もしくはこの指示語を含む文章に波線がつくことになります。
そのつまずいた部分を一緒になぞりながら、どんな手順で内容を決定するかを実践してみせると、何度か繰り返すうちに子ども自身が考え方や技法を「まねび(まなび、ではありません)」はじめるのです。
こういったこまやかな内容把握も、個別指導でなければカバーできない部分だと言えます。


さて、物語文の読解方法にも触れたいところですが、紙幅が尽きたようなので、またの機会にしましょう。
好みの問題もあるでしょうが、物語文は教えていても楽しいジャンルです。
特に記述において、「具体と抽象」で記述のやり方を教えると、おもしろいように「書ける」ようになります。
この方法ですと、求められた字数にあわせた内容の増減がしやすく、ぜひ個別の授業でそのおもしろさを体験していただきたいと思います。

それでは、中学入試のジャンルの説明をしておきます。

中学入試における国語の読解の出題範囲は大きく分けて6ジャンル(「説明文」「論説文」「物語文」「随筆文」「詩」「短歌・俳句」)あります。
このジャンルごとに読解技術が異なるため、ジャンルの識別は必須です。
ただ、用意する視点はどのジャンルでも基本、変わりません。

説明的文章

「説明文」「論説文」がこれにあたります。
いわゆる論理が緊密な文章で、あらゆる読解の基礎となります。
「説明文」は専門家が自分の知識の一端を一般に向けて「わかりやすく説明する」文章です。
自分の意見というより、知識の啓蒙的側面が強く、出題する際の文章の抜き方によっては、いわゆる「結論」部分がないものもあります。
「説明文」を「何のどんなことについて書いてあったか」という視点でまとめたものが〈要約文〉となります。
「論説文」は筆者が自分の知識を土台としてオリジナルの意見を読み手に向けて伝えようとする文章、という理解がわかりやすいでしょう。
「説明文」とは異なり、筆者の主張がありますから、結論部分は必ずあります。
「論説文」を「筆者の意見」という視点でまとめたものが〈要旨〉となります。

文学的文章

「物語文」「随筆文」がこれにあたります。
ただし、この2ジャンルは全く別物で、「物語文」はフィクション、「随筆文」は筆者の体験を基にしたノンフィクションの形をとっています。
では、なぜ「文学的文章」とひとくくりにするかというと、書かれた文章のかげに論理性が隠れて見えにくいためです。
いわゆる「行間を読む」とか、「文章の底に流れている筆者の思いや考えを読みとる」といった、離れ業的読解を要求する文章なのです。
考えてみれば、日本文学の主たる流れは、この文学的文章にあります。
よく言われることですが、日本語の構造自体に、緊密な論理性よりも情緒的感性に有利に働く要素があるのですね。
文学的文章は、無意識に同じ文化の感受性の土台を要求される文章といえるかもしれません。
おもしろいのは、子どもはもともと論理性より感性に偏っていますから、この感性の部分が合致した物語文ですと、俄然はりきって解きます。
逆に、自分にとって未知の感受性に触れられていると、とたんに「わけわからない文章」と投げだすのです。
国語という教科は、論理性を重んじますから、いずれにしても感性に頼った読みは、国語という教科の真の読解力とはいえない。
国語としては、正解の出し方を論理的に身につける必要があるのですが、実体験や読書という疑似体験を通して通常より比較的豊かな感性が養われたお子さんは、「感覚的に」分かる物語文に当たる確率が高いため、「自分は物語文は得意である」という誤認に至ります。
説明的文章の読解では点が取れていないお子さんがこの「疑似体験による感性読み」タイプになります。
くどいようですが、論理的に読み解く思考法こそ国語と言う教科の求める力であり、そしてそれは出題者の意図という論理の流れを考慮に入れて解答を導き出す、という暗黙のルールに支えられた国語の読解には欠かせない力なのです。
言い換えると、「論理読み」が出来ていれば、どんな素材が出て来ても、ある程度むらなく得点できるのです。
ここで敢えて「ある程度」の得点、というのは、その論理的思考の一方で、普遍的な人間性への理解という大人の「常識」も読解の土台として要求される面があるからです。
その複雑さが文学的文章を国語的に学習する大変さかもしれません。
そういった意味で、先の説明的文章よりやや難解な面はあります。
いずれにしても、〈 論理性+人間性の理解 〉という「物語文を読む技術」を身につけなければ、安定した得点には結びつかないのです。

韻文 (⇔散文)

論理的につづられた文章(説明文・論説文・物語文・随筆文)を「散文」というのに対し、リズムを持ってつづられる文学形式を「韻文」といいます。
中学受験では、「」「短歌」「俳句」がこれにあたります。
行間を読む、感性の土台を要求される、といえば、最高峰は間違いなく韻文です。
しかし、幸いなことに中学受験における韻文の読解に高いレベルは要求されません。
行間を読むことが要求されるものほど、読解の幅が広くなり、試験問題に向かないため、出題に際しては読解に個人差が出ない程度に難度を抑えなければならず、必然的に複雑な読解を要求する設問が作られないのです。
複雑な読解を要求する問題は選択問題中心となり、表現技法(特に比喩)、題名、主題といった細部読解が多くなります。
特に、短歌・俳句の場合、知識的な問題に終始することが多いのです。
志望校に韻文が出題される学校は、かえって対策が取りやすいともいえるでしょう。

ただし、韻文に鑑賞文がくっついた問題が出題されることがあり、その場合は注意が必要です。韻文の読解は読解の幅があると先に述べましたが、そのため鑑賞文によりプロの読解を示すことで、子どもたちへの韻文の理解をうながす形をとるのです。
鑑賞文は論説文と同じくくりになりますから、論説文の読解方法を用いて解きますが、鑑賞文の論旨に沿って、韻文を理解することも求められますから、難度は高くなりがちです。
この鑑賞文と韻文との複合問題を苦手とするお子さんは多く、志望校での出題の可能性がある場合は早めの対策を講じる必要があります。
逆にいえば、対策をとるか否かで得点に大きな開きが出てくる分野だといえます。
個別の指導が生きてくるわけですね。

最後に

中学受験をカーレースにたとえるなら、今、国語が苦手というお子さんの多くは、国語というサーキットを自己流で迷走している状態です。
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時間制限内に合格というゴールにたどりつくには、運転技術のどこにスムーズに走れない原因があるのか、助手席に座って、一緒に走行しながら、お子さんの運転の癖を見抜いて、正しくアドバイスする必要があります。

そうすれば、子供たちが乗りこなそうとしている車に搭載されているエンジンや性能に個人差があっても、運転する技術があがり、目的地までの最短コースを走ることで時間制限内に合格のゴールが見えてくるのです。

要は、いたずらに時間を費やして学習するのではなく、「読む」という作業をともになぞりながら、思考を方法として意識化する手順を教えてくれるナビゲーターに従って進んで行くこと、それによって「正しく読む力」「読みとったことを伝える力」「問われている形に沿って、過不足なく書ける力」が身につくのです。

このナビゲーター役こそが個別の講師だと自負しています。

集団塾の講師は、自分のチームの車を一台でも多く合格のゴールに入れるため全体の音頭をとっており、一台の車の助手席に乗りこんで、実際の走行に従ってアドバイスすることはできません。
国語という教科は実は個別学習がもっとも向いているのではないか、と思うゆえんです。

さて、上記の「思考を方法として意識化する手順」として、視点を定めて文章や設問に書かれた情報を整理し、理解する方法をご紹介いたしました。
ぜひ実際の指導の中で国語の力の伸びを実感してください。
真の国語の力をいったん手に入れたら、成績はふらつきません。
(それどころか、高校、大学に行っても、社会に出ても、はたまた他のジャンルの学習の中でも役立つ一生ものの力です。)
まずは中学受験突破を目指して、受験ドクターにご連絡下さい。
お待ちしております。

指導実例

物語文で得点できないお子さんへの指導実例

Lesson1 状況把握

物語文で問われる設問の大部分が「心情」にかかわる問題です。全体の80パーセント以上を占めます。
しかし、心情把握の前に押さえておかなければならなのは、「状況把握」です。

状況把握とは、時代、登場人物、中心人物と周囲の人との関係性、中心人物の家庭環境、中心人物の置かれた状況を読みとること。

この状況把握抜きに、中心人物の正確な心情把握はありえません。

もちろん国語の素材文は、ひとつの物語から、ある部分を切り取ったものですから、その切り取った部分だけで、十分な状況を把握するのは難しい場合もあります。
ですから、その切り取られた部分からわかる状況のみを推測するという作業も発生してきます。
「この子の父親や母親は家にはいなくて、このおばあさんが面倒も見ている。ということは、田舎であるし、時代が古いから、両親のところから預けられているのだろうか」とか
「空襲というから戦争時だな。8月というから、終戦間近だろうか。広島にこの子の親がいるなら、ここには書かれていないが、この後悲劇が訪れるのだろう。」
こういった、知識、すなわち外側の情報からの推測と
「この少年は、心に何か深い傷を負っているのだな」とか
「AとBは今気まずい状態にあるのだな」
という本文の内容、すなわち内部からの状況推測とがあります。
いずれも本文の情報がもたらす推測です。

難関校でよく出題される「翻訳もの」では、翻訳独特の言い回しにより、状況がつかみにくく、また、出題者もあえて状況が読みづらい部分を切り取ってぶつけてくることもあります。
小学生は、自分が体験していない(体験には読書体験も含みます)状況に関しては、「混乱」し、本文読解を「投げ出し」て、小手先で設問にとりかかってしまいます。

簡単に状況を把握できる素材文は別として、難関校にありがちな小学生には状況をとらえにくい素材文が出てきたとき、どう対処すればよいのでしょうか。
対処の方法は二つあります。

一つ目は、場所・時間・登場人物に印をつける。さらには、状況がわかる台詞、表現にも印をつけ、場面分けしておくことです。
場面わけとは、「時間・場所・登場人物の入れかわり」です。とりあえず、この中の二つ以上変化すれば、そこはひとつの場面として切ることができます。中心人物の心情の変化できる方法もあります。

場面分けに実は正解がひとつしかない、ということはありません。
視点が変わったら、切る場所も変わるのです。
ですから場面分けの設問では、分ける数が示されています。
場面分けの設問がない場合は、正解にこだわらずに、自分なりのブロック分けの意識で切っておきましょう。
物語文が苦手だというお子さんは、場面分けだけでも行うと、全体像が見えてきます。だまされたと思って、まずはやってみてください。
そして、これは矛盾するように思われるでしょうが、ある程度、状況が把握できたら、必要以上にこだわらないことです。
こだわって、何度も読み返していると、解答時間に影響します。
細かなところまでわからなくても設問の流れである程度補えるので、とりあえず大体のところがつかめたら、そ
のまま設問に向かいましょう。
二つ目の方法で詳しくご説明いたします。

二つ目は、即効性のある方法です。
状況がよくつかめない、いやもっと言うなら読後の感想が「よくわかんない」であった場合、その状況を教えてくれるのは、設問です。特に選択肢が用意されていれば、相当ラッキーです。
選択肢が「ああ、こういう意味だったのか」と読めていなかった情報を補ってくれます。
選択肢がなく、記述だらけの設問であっても、「何を」記述させようとしているのか、設問間の流れはどうなっているのかを見ていけば「なんとなく」ではあっても読みとるべき筋道は見えてきます。

全体の三分の一程度読んで、状況もわからずもやもやしたら、とりあえず、パパッと選択肢問題の選択肢文に目を通してみてください。記述しかない場合は、どういったことが問われているのか見ておいてください。方向性がほんの少しでも見えてくれば、落ち着くはずです。

特に、現代のものであっても、中心人物や周囲の人物が複雑な家庭環境に置かれていれば、小学生の「混乱」を招くのは必至です。「混乱」、パニックを収めるためにも、わからない時点でサッと設問文に目を通しておく。
さらにいえば、後で設問を読めばわかるからとりあえず、今は先に進んで読み終えよう!と「ひっかからない」ことが大切なのです。

「ひっかかれば」同じ部分を何度も読み直したり、先の読みに自信がなくなって、フラフラした読みをしてしまい、ロクなことにはなりません。
難解な文章は、ブルドーザーのように、理解が十分でなくともとりあえずガッと進んでいく。そのタフさ、勢いが必要になります。

さて、では、無事状況がある程度おぼろげにつかめた、という時点で「心情」理解についてご説明いたしましょう。

Lesson2 心情把握

さて、物語文の設問の80パーセント以上は「心情」にかかわる問題だと言いました。
ということは、心情を理解できれば、80パーセント以上の得点が可能だということ、ですね。

では、そもそも物語文における「心情」とはなんでしょう?

あたりまえですが、「物語」はフィクション、すなわち「嘘っこの世界」です。物語文は「現実」を映しとったものではない、物語文は現実のある側面をフォーカスして創られた世界なのです。
ですから、表現はすべて記号です。身体表現はある種の「心情」を映し出し、描写、すなわち地の文の「表現」は、登場人物の心情を規定します。

なにやら、小難しい、とお思いなったら、「表現には意味がある」ということだけを確認してください。

少なくとも世界はひとつの像を結ぶために、登場人物の心情はある方向性をもって変化していく。

その方向性とは、物語全体では、普段→事件→心情のゆれ→気づき(→混乱)といった型に従うことが多い。
そして、「物語文」の試験では、「事件→心情のゆれ→気づき」の部分が抜き取られることが多いのです。

最後の「混乱」は、ある物語もあれば、無い物語もある。私のかつての専門であった夏目漱石では、多くがこの「混乱」で終わります。「三四郎」「それから」は典型ですし、「行人」「門」「道草」もある意味そうかもしれません。安岡章太郎も、とことん「混乱」で終えることの好きな作家さんですね。

ところが、中学受験で扱われる近年の作家さんのほとんどは「気づき」を用意しています。若年層を対象とした物語には、やはり「気づき」(=「成長」)という落としどころが必要だということなのでしょう。

さて、話が逸脱しました。物語文における心情読解の方法、ですね。

今ぐだぐだとご説明したように、物語文における心情読解は「表現」の意味するところを読みとる、これにつきます。
では、具体的に次の物語文をご覧ください。
芥川龍之介の『トロッコ』です。

「われはもう帰んな。おれたちは今日は向う泊りだから」
「あんまり帰りが遅くなるとわれの家でも心配するずら」

良平は一瞬間呆気にとられた。もうかれこれ暗くなる事、去年の暮母と岩村まで来たが、今日の途はその三四倍ある事、それを今からたった一人、歩いて帰らなければならない事、――そう云う事が一時にわかったのである。良平は殆ど泣きそうになった。が、泣いても仕方がないと思った。泣いている場合ではないとも思った。彼は若い二人の土工に、取って附けたような御時宜をすると、どんどん線路伝いに走り出した。
良平は少時無我夢中に線路の側を走り続けた。
蜜柑畑へ来る頃には、あたりは暗くなる一方だった。「命さえ助かれば――」良平はそう思いながら、辷ってもつまずいても走って行った。
やっと遠い夕闇の中に、村外れの工事場が見えた時、良平は一思いに泣きたくなった。しかしその時もべそはかいたが、とうとう泣かずに駈け続けた。
彼の村へはいって見ると、もう両側の家家には、電燈の光がさし合っていた。良平はその電燈の光に、頭から汗の湯気の立つのが、彼自身にもはっきりわかった。井戸端に水を汲んでいる女衆や、畑から帰って来る男衆は、良平が喘ぎ喘ぎ走るのを見ては、「おいどうしたね?」などと声をかけた。が、彼は無言のまま、雑貨屋だの床屋だの、明るい家の前を走り過ぎた。
彼の家の門口へ駈けこんだ時、良平はとうとう大声に、わっと泣き出さずにはいられなかった。

さて、状況をまずとらえましょう。
「われの家でもしんぱいするずら」というところと「去年の暮母と岩村まで来たが」というところから、「良平」はまだ子どもであることがわかります。
そして、「良平」が何らかの事由で「若い二人の土工」について遠くまで来たことも「若い二人の土工」の台詞から伺えます。
子どもが一人で遠く離れた家に帰る、しかも「もうかれこれ暗くなる事」とあることから、時間帯も午後の遅い時間帯であったことが推測されます。
「良平」が一人で変えることを予測していなかったことから、子どもを一人で返すことをなんとも思っていない、「若い二人の土工」の無責任さも伺えます。

以上が、読み取れる「状況」です。
これを押さえたうえで、傍線部ア「良平は一瞬呆気にとられた」ときの良平の気持ちを説明してみましょう。

まず、「呆気にとられた」直接の原因を見てみましょう。
「若い二人の土工」の「われはもう帰んな。おれたちは今日は向う泊りだから」「あんまり帰りが遅くなるとわれの家でも心配するずら」という台詞を聞いたこと。こらが「呆気にとられた」直接の原因です。

では、この直接の原因が具体的なので、少し抽象度を上げてみましょう。

1) 「若い二人の土工」の「われはもう帰んな。おれたちは今日は向う泊りだから」「あんまり帰りが遅くなるとわれの家でも心配するずら」という台詞

「二人の土工」の「良平」を一人で帰らせようとする、無責任な言葉

次に「呆気にとられた」という傍線部分を心情語に置き換えてみましょう。

2) 「呆気にとられた」  ⇒    「驚き、どうしてよいか呆然とする気持ち」

では、1)と2)を足し算します。

「二人の土工」の「良平」を一人で帰らせようとする」無責任な言葉を聞いて、驚き、どうしてよいか呆然とする気持ち」

では、なぜ「一人で帰」ることが、「良平」にとって呆然とすることなのか。
次の情報を間に挟みましょう。

素材文、傍線部の後ろになぜ呆気にとられたのかの説明が続いています。
「もうかれこれ暗くなる事、去年の暮母と岩村まで来たが、今日の途はその三四倍ある事、それを今からたった一人、歩いて帰らなければならない事、――そう云う事が一時にわかったのである。」
ここを使います。

「二人の土工」の「良平」を一人で帰らせようとする」無責任な言葉を聞いて、今まで歩いたこともないような遠い距離を一人で戻ることを理解し、驚き、どうしてよいか呆然とする気持ち。

今の手順をまとめてみます。

① 「直接の原因となるできごと」
② ①を意味付けする
③ 傍線部を心情語に置き換える

① +②+③

これが、傍線部が登場人物の「表情・動作・しぐさ・台詞・行動」であったときの心情説明の公式です。

心情把握は、「表現は記号である」ため、「表現」に着目して、それを心情語に置き換えることで、成立します。
その際、心情語のみを解答すれば、当然得点できません。
中学受験の国語は、必ず
「直接の原因となる出来事+意味付け+心情語」
で答えることがルールです。

多少の変化球はありますが、基本のこの型をしっかり覚えておきましょう。

さて、心情理由の記述は、心情説明の記述に「~から」をつけるだけで成立します。

心情の変化は
「初めは①②のため③だったが、➊❷のため➌に変わった」
という公式を確認しておきましょう。

さて、心情把握ができれば、次に設問処理の方法をご説明、といいたいところですが、
こちらから先は、実際に指導をお試しいただければ幸いです。

指導法が「論説文」「説明文」でしたので、指導実例としては「物語文」を扱いました。
いずれ「随筆文」や「韻文」の指導法についても触れてまいります。

学習相談もぜひご活用ください!