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東京校がある日本橋横山町の問屋街の歴史

こんにちは、受験ドクター東京校のYです。

今年は、8月初旬までの猛暑から一転、お盆休みのころから一気に「秋に突入」という感じの気候でしたね。
「食欲の秋」・「読書の秋」、いやいや「勉強の秋」ということで、6年生は志望校の過去問を抱えての通塾が始まりました。「合格するには何点くらいとればいいかなぁ」とか、「これって捨て問?」などの質問や、保護者の皆様からも受験スケジュールや併願校に関するご質問が多くなるなど、「受験が近づいてきたなぁ」と、我々ドクター講師陣にとっても、より一層気の引き締まる時期がやってまいりました。
5年生からも、歴史が始まった社会をはじめ、2学期に入って「各科目の学習内容が質・量とも大変になってきた」というお悩みのご相談が多くなります。
また、4年生は算数で小数・分数のかけ算、わり算を学習する時期です。特に小数のわり算はややこしくて嫌いな生徒が多いですが、「商の小数点はずらすが、余りの小数点はそのまま」を押さえておけば大丈夫です。
このように、程度の差はあれど、どの学年も学習スケジュールが変化する時期です。些細な不安・疑問でも構いません。ご家庭で抱え込まず、不安が大きくなってしまう前に、我々ドクターにご相談ください。

話は変わって、秋と言えば、そろそろ「衣替え」の時期でもあります。
東京校のある日本橋横山町には、洋服など繊維の有名な問屋街があります。
「どうしてここに問屋街があるの? 日本橋に近いから?」と、気になり歴史を調べてみました。
現在は、馬喰町と横山町を合わせた「馬喰横山」一帯が問屋街となっていますが、昔はそうではなかったようです。

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(左が横山町、右が馬喰町。新道通りで二つの町の一体化が図られた。)
江戸時代の初め、横山町に西本願寺の別院があったのですが、1657年の明暦の大火のあとに築地へ移転し、その跡地に町屋(店舗兼住宅)ができたそうです。浅草御門に向かう街道筋にあるという好立地も手伝って、小間物(日用品)、薬・書物など各種問屋が集まり、江戸時代の代表的な商店街となったようです。
明治時代に入ってからも、周りに多様多種な問屋が増え、東京の大問屋街となったそうです。
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(問屋街の中心、横山町問屋街。)

一方、馬喰町はその名の通り、かつては馬市の立つ町で、関ヶ原の戦いの際には、ここで出陣前の馬の点検が行われたそうです。
こちらも明暦の大火のあと、浅草橋に関東郡代というお役人の屋敷が建ち、地方からお役人に会いに来る人たちの旅籠(旅館)ができたそうです。
そうすると、隣の横山町に仕入れに来る商人が増え、さらに旅籠が増えるという好循環が起こり、江戸一番の旅館街となったそうです。
宿泊客が増えると、江戸土産を求める人たちのために小間物をはじめとする問屋を開く人たちが出てきて、馬喰町問屋街へと発展したようです。

このように、「明暦の大火」を境にして新たな街作りをすることになった二つの町が、別々の方法で発展してきたにもかかわらず、ともに大問屋街となり、現在では一体となって一大商業地を形成しているということです。
 
 私は気になったことを調べることが多いのですが、その事柄に付随する色々なことも一緒に目にすることができます。これは勉強も同じでしょう。今はすぐに調べることができるインターネットという便利なものがあります。関連事項を結びつけながら、効率的に学習を進めてください。


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